~「インターネットスクールたったひとつの地球」を活用して~
平成元年度に放送教育という教育があることを知って以来、その研究実践にとり組んできました。様々な場面で、様々な実践発表を行ってきましたが、その中でも1998年に行われた第49回放送教育研究会全国大会東京大会での発表が一番大きな大会の発表でした。与えられた発表テーマは「総合的な学習と放送学習」で、後に、書籍の一部としても発表させていただいたり、放送教育の著名な実践家や研究者の皆さんと交流させていただけるようになったりした発表です。
25年前の発表で教職13年目の実践です。当時まだあまり認められていないプロトコル分析を中心にした質的分析に挑戦し、その後の自分の研究の方向性が明確になった研究発表です。参考になれば幸いです。
1「子どもの学びをみつめた放送教育」について
放送教育について語るとき「放送番組をなぜ使うのか」と言うことを明らかにする必要がある。なぜなら放送番組は使い手の意図や目的によって様々な使い方が可能だからである。その代表的な議論は「放送教育か視聴覚教育か」と言うものであろう。この問題は,放送教育について語る場合,絶えず問題にされることであり,また,近年は,コンピュータをはじめとする様々な機器の登場により,「今,なぜ放送なのか」と言うことにおいても議論されている問題でもある。この問題に深入りすることは,ここでの目的ではない。どちらにしろ,これまでの研究や実践から,放送番組が,子どもたちの感情に迫りながら,子どもたちに様々な思いを生じさせる特性を持っていることは明らかであろう。
そこで,私は,この放送番組の特性を活用し,子どもたちに生じる様々な思いを,さらに発展させることで,子どもたちの豊かな学びが実現できるのではないかと考え放送番組を活用するものである。
さて,今回の提案は,「総合的な学習と放送学習」である。ここで,これ以後の混乱を避けるために,この提案にあたっての私の捉え方について若干説明する。ここで言う「総合的な学習」とは,現在審議されている次回の指導要領で新設されるであろう「総合的な学習の時間(仮称)」ととらえる。また,「放送学習」については「放送を視聴し,それを発展させる学習」としてとらえ,用語を次のように変更する。放送視聴による子どもの学習を,「放送学習」。そこから発展させた学習を「発展学習」。これらを合わせて「放送による学習」とする。従って,以後,本提案にあたっては部会テーマの「放送学習」を「放送による学習」と言い換える。つまり,本提案は「総合的な学習の時間」を見通した「放送による学習」について考えていく。
まだ、「総合的な学習の時間」が中教審で議論されてた時代です。
このようにとらえた場合,まず「総合的な学習の時間」のねらいが,問題となる。教育課程審議会の答申によれば,「総合的な学習の時間」のねらいは次のようにされている。
「各学校の創意工夫の下で行われる横断的・総合的な学習を通じて,自ら課題を見つけ,よりよく課題を解決する資質や能力の育成を重視し,自らの興味・関心に基づき,ゆとりをもって課題解決や探究活動に主体的,創造的に取り組む態度の育成を図ることとする。また,知識内容を教え込むのではなく,情報の集め方,調べ方,まとめ方,報告や発表・討論の仕方などの学び方やものの考え方の習得を重視し,主体的な学習を推進するとともに,各教科,道徳,特別活動それぞれで身に付けられる知識や技能を児童生徒の中で総合化することをねらいとする。」
このねらいからは「総合的な学習の時間」が,極めて「児童中心による学習の時間」であることが読みとれる。さらに学習活動は次のように述べられている。
「国際理解・外国語会話,情報,環境,福祉などの横断的・総合的な課題などについて,地域や学校の実態に応じ,各学校が創意工夫を十分発揮して学習活動を展開するものとする。その際,自然体験やボランティアなどの社会体験といった実体験,観察・実験,調査,ものづくりや生産活動など体験的な学習,問題解決的な学習を重視する。」
このような「総合的な学習の時間」を見通した時,これまでの授業との大きな違いがあるのではないかと考える。これまでの授業においては,教師がねらいをもち,学習内容を考え,それをいかに子どもに学ばせるかが重視されてきた。ところが,総合的な学習においては,課題は子どもたちが見つけ,さらにその課題をよりよく解決する資質や能力を育成することが求められている。そして,そこでは知識ではなく「学び方やものの考え方」が重視されている。このような学習において教師は,まず,子ども自らが課題を見つけられるような,支援を行う必要がある。さらにその解決過程における子どもの学びやものの考え方を捉え,「子どもの学び」に応じた支援をする必要がある。このような教師の役割が「子どもの側に立つ教育」を実現することにつながる。そうしない限り,これまでの教科学習と変わりなく,教師の敷いたレールの上を子どもたちが,必死に走ることになるのではないか。つまり,子どもは,どのような学び方をして,どう自分で解決しようとするのか。それを見極め,支援していくことが特に重要となるのではないかと考えている。
このように考えたとき,放送番組は「総合的な学習の時間」の基幹教材となりうる可能性をもっていると考えられる。放送は,年間を通して,様々な視点からの情報が得られる。それらの情報は,教師の手ではとても得られないようなものも含まれる。それを視聴した子どもたちは一人一人が,様々な思いをもつであろう。それは,時に疑問をもつことであったり,学び方を知ることであったりするであろう。それを生かし,支援していくことで,「総合的な学習の時間」におけるねらいが実現される可能性が高いのである。
しかし,たとえこのような可能性をもっているとしても,子どもが放送番組からどのような学び方をするのかは,実際の授業を行ってみない限り分からない。また,行った授業を通して,さらに効果的な指導法を考えていかなければならない。そのためにも,「子どもの学び」を捉えていく必要があるのである。
このような考えに立ち,本年度放送されている「インターネットスクールたったひとつの地球」を1年間,継続的に利用しながら,環境教育に取り組み,「総合的な学習の時間」を視野に入れて実践に取り組むことにした。
2 実践にあたって
(1)学校・児童の実態
本校は,徳島市の南に位置する,全校111名,各学年1学級の小規模校である。周りには田園が広がり,山も近い。その山を切り開き,今年,徳島動物園が移転開園され,現在は植物園などが整備中で,完成後は広大な自然公園となる。
子どもたちは,純朴で素直な子が多い。放課後には,高校生から,小学生までが共に遊ぶ姿が見られるように,子どもたちは,互いによく知り合っている。
本年度,私が担任している6年生は,27名である。子どもたちはこれまで,放送番組を使った授業の経験は少ない。
(2)めざす子ども像
実践にあたり,「総合的な学習の時間」におけるねらい及び環境教育のねらいと放送教育におけるねらいを検討し,児童の実態をふまえ,次のような子ども像をめざして実践に取り組むことにした。
- 環境問題に関心を持ち,環境を大切にしていこうとする意欲を持った子ども
- 放送番組を視聴し,環境問題に対して自らの課題を見つけられる子ども
- 環境問題を多様な視点から考えることができる子ども
- 自らの課題を解決するための方法を考え,実行できる子ども
- 課題解決に向けて,他の児童や周囲の人々に関わろうとする子ども
(3)年間計画
現行の指導要領は,環境教育の視点が盛り込まれており,文部省が平成4年発刊した「環境教育指導資料(小学校編)」では「大きな意味では,学習指導要領に示された各教科等の目標を達成するように努力することが,学校における環境教育のねらいを達成することになるものと考える」と述べられている。つまり現在の環境教育は現行の指導要領に示された各教科等の目標を達成することであるということになる。
従って,現行では各教科の目標を達成する環境教育と,放送教育との位置づけが必要となる。これは,これまでの放送教育カリキュラムの問題点と同じである。そこで今回の実践にあたっては,これまでの放送教育カリキュラムの「並行型」と同じ考え方をとり,各教科と,放送を使った環境教育のカリキュラムを「並行」に扱い,「放送カリキュラム」は,放送される番組の年間計画に準じる形で実施することにした。これにより「総合的な学習の時間」における基幹教材としての放送番組の効果も検討できると考えたからである。ただこのような形は,時間が問題となる。そこで,実施時間は,月に4時間の学校裁量の時間や,特別活動の時間を利用することにした。
(4)授業方法
筆者は各教科の学習においても「話し合い学習」を中心に行っている。教科書をはじめとした教材について子ども同士の話し合いから課題を設定し,その課題を話し合いによって解決していく。そして話し合いの過程で新たな課題が生まれ,さらに話し合いを進めていくというものである。放送を教材とした場合も同じような流れをとることにした。具体的には,放送から得た感想を話し合い,そこから学習を発展させていく。ここで,放送からの情報の受け止め方は,個々によって違っている。従って,視聴後,互いの受け止め方を話し合う中で課題を設定し,自らの問題をとらえ直したり,発展学習の方法を考えたりしていくことになる。教師はあらかじめ番組は視聴しており,予想される話し合いは想定しているが,子どもたちの話し合いによる状況によって,臨機応変に対応し,話し合いを支援していく。このような授業の流れを図示したものが下の図である。
また,話し合いの授業において,教師は,座席表及びカルテなどを通して,一人一人のものの見方や考え方を把握することに努めている。特に,情報が多く,心情的に訴える放送番組を教材とした授業においては,子どもたちは教師の想定し得ない思いや,態度を表すことがある。さらに,自由な話し合いでは,クラスにおける人間関係や,力関係なども捉えやすい。つまり,このような授業は,個々の子どもに対する支援を行うと同時に,子ども理解を深めていく授業と言うことができる。
3 実践事例
これまでの実践について番組名とその学習の概要を時系列順に説明する。(なお番組名の後には便宜的に番号をつけておく。それは,後の説明を分かりやすくするためである。)
(1)便利なコンビニ(番組番号1)
児童にとって初めての番組視聴である。この視聴のきっかけとなったのが代表委員会での話し合いであった。4月の初めての代表委員会で「学校に落ちているごみをなくすにはどうすればいいか」と言うことが問題になった。話し合いの結果,子どもたちが決定したのは「学校の敷地内の飲食禁止」であった。この決まりを決定する話し合いの過程で反対派の意見を考慮し,この決まりを1ヶ月間行い,様子を見ると言うことになった。5月になってこの決まりを継続するかどうかが話し合われた。そして,この決まりが思ったように守られていないことが問題になった。守られない原因は,ごみについての問題意識が少ないからではないかと言うことになり「ごみゼロ活動」と「ごみをなくす集会」が提案された。「ごみをなくす集会」の企画を考えているとき,児童からいくつかの案が出された。その際,「先生,映画とかないの?」という質問があった。そこで初めて指導者である筆者は「たったひとつの地球」があることを子どもに知らせた。それまでビデオに収録はしていたが,視聴は児童の環境問題への問題意識が高まってからと考えていたので,視聴はさせていなかった。
当時は、VHSという規格のビデオテープレコーダー録画していました。
集会ではビデオを見て1年生から6年生までが6つのグループに分かれて話し合うことになった。そこで,この集会を成功させるために6年生がビデオを見てグループに分かれて,話し合う授業を行った。その際に活用したのが本番組である。
(2)ごみを食べた動物(番組番号2)
本番組は「ごみをなくす集会」で全校児童が視聴した。集会の流れは図3-1のようなものである。この集会の後,いくつかの学年では再度話し合いが行われた。6年は集会について「自主学習ノート」に感想や自分の考えをまとめることにした。
(3)カヌーからながめた川(番組番号3)
「ごみをなくす集会」から,6年は「たったひとつの地球」を継続的に視聴していくことにした。そして本番組視聴後の話し合いの中で,方上の地域にごみを捨てないように呼びかける看板とゴミ箱を設置する案がだされた。そこで,時間を改め具体的にどのようにするかを話し合った。その際,子どもたちは,ごみの多いところに設置するということから,地域のごみの実態について調査することになった。話し合いの結果,自分の住む地方別に看板とゴミ箱を設置することになった。看板作成については,地方別に分かれてデザインなどが話し合われ,図工の「ポスターづくり」の時間に作成し,放課後に設置した。
(4)私たちの使った水(番組番号4)
視聴後の話し合いでは,生活排水を少なくするための方法が話し合われた。そして,生活排水を少なくするための呼びかけのビラづくりが提案された。
(5)田んぼの生きもの(番組番号5)
視聴後の話し合いでは「農薬は使わない方がいい」という意見でまとまり,「害虫駆除にはアイガモを使うとよい」と言った意見が出された。そこで教師は「それではなぜこの地域ではアイガモを使わないのか」と,子どもたちの考えをゆさぶることで調査活動への向かわせようと考えた。その結果,授業の最後では「農家の人々がどのように考えているか聞いてみよう」ということになり,放課後の調査活動へとつながっていった。調査した内容は,自学ノートにまとめ,朝の会で発表された。
(6)さんごしょうの命(番組番号6)
本番組では,視聴の感想は「珊瑚礁を守っていかなければならない」という番組の趣旨にあった感想発言が相次いだ。全ての子どもが,感想を発表し終えた後,子どもから「先生の感想を聞かせてほしい」という意見があり,「何か自分たちにできることはあるのかを考えていた」と答えた。それに続いて,ある児童から「川は海につながっているので,川にごみを捨てないようにする」と言った発言があった。そこで地域的な問題から,具体的な行動については,この番組では考えにくいと判断した教師は,開発と環境の問題を考えさせることを意図して,「開発のためには多少の珊瑚が死んでも仕方ない」と,挑発した。これに対して,一部の子どもたちは「先生の考えはおかしい」と猛烈に反対した。しかし,一部の子どもたちが「先生の意見に賛成」と言うことから,話し合いが白熱した。賛否両論の話し合いの中で「自然を破壊しない開発を考える必要がある。」という新たな意見が出たところで,授業を終了した。
(7)変わりゆく砂浜(番組番号7)
番組視聴後の感想では,漂着物への驚きや,鳴き砂の不思議さなどが発表された。話し合いに入ったところで,番組4で実現していないビラづくりについて考えようと言う子どもや,番組6での話し合いをもう一度おこなおうという意見が出たが,どちらも多くの子どもたちの賛成を得られず行き詰まった。子どもたちの意識が,これまでの環境学習全体に向かっていると判断した教師が,「私たちの周りや私たち自身は,これまでの環境学習で変わったのか」と問いかけ,それを作文につなげ,これまでのまとめの時間とした。
4 実践を振り返って
これまでの実践から,放送番組を使った「総合的な学習の時間」への示唆を得るために,子どもの学びと指導のあり方について振り返ってみる。
(1)放送学習による子どもの学び
放送による学習は,視聴中の放送学習と視聴後の発展学習に分けることができる。まず,放送から子どもは何をどのように学ぶのかを明らかにするため,視聴ノートと授業後の感想の発言を分析し,放送学習による児童の変容を検討する。分析対象としたのは番組1と番組3である。これは番組視聴をして初めての番組と3回目の番組であるため,継続的な学習による発展学習の影響を受けにくいと考えたからである。
視聴ノートを分析した結果,ほとんどの児童は何らかの知識を獲得していることが分かった。次のような感想である。
F児 コンビニで売れ残った弁当を捨てているのは初めて知った。
このような感想を<知識獲得型>の学びととらえてみる。
またその獲得においては感情を伴う表現も多く使われている。代表的なものは
M児 川にあれだけのごみが流れ込んでいるのに驚いた。
T児 上流の方はとてもきれいになっていたのに下流の方は濁っていた。ごみをとる船が活躍しているなんて知りませんでした。人間が勝手に川を汚してひどいと思いました。
と言うものである。これらを<知識獲得感情型>と呼んでおく
さらに知識獲得から行動化への意欲を高めている子どもも見られる。
例えば次のような感想である。
M児 確かにコンビニはすごく便利だ。私もたまに行くことがある。けどごみが一度買うだけでかなりたくさん出てくる。それをリサイクルすることが環境を守ることにつながると思う。私もリサイクルできることがあったらリサイクルしたい。
このような学びを<知識獲得行動型>と呼んでおく。
この分析の結果,子どもたちのほとんどは番組から何らかの知識を得,さらに感情がゆさぶられたり,行動化の意欲を高めたりしていることが分かった。これはこれまでの研究や,筆者の経験にも一致している。
ところが,筆者のこれまでの放送番組を視聴した経験から考えたとき,特徴的な事実があった。それは本番組視聴からは疑問が生まれにくいと言うことである。これまでの理科や社会・道徳などの番組では,視聴後,疑問や調べてみたいことなどを視聴ノートに記入する児童が数名はいる。本年度の児童が初めて理科番組を視聴した際も数名の児童が疑問を書いている。しかし,この二つの番組の視聴から疑問を記入したものは1名で,その疑問は「なぜごみを捨てるのか」と言うものであった。
これらのことから放送学習における児童の学びについては,次のようにまとめることができる。
学校放送環境番組を視聴した子どもは,番組から様々な情報を受容し新たな知識として獲得する。そしてその情報は,感情をゆさぶったり,環境問題を解決しようと言う意欲を高める。しかし,番組から新たな疑問を発見し,追求していこうとする発展的な学習にはつながらない。
以上のことから,児童の放送学習による変容について考えてみる。
まず,番組から疑問が生じないことについて考えてみる。「なぜ」という疑問は二つの知識の矛盾によって起こると仮定した場合,この番組からは知識の矛盾を意識化できないと言うことになる。さらにほとんどの子どもが<知識獲得型><知識獲得感情型><知識獲得行動型>の学びをしていることから,番組の内容が,子どもの既有の知識に矛盾なく受容されるか,子どもの既有の知識が少ないかの2つが考えられる。例えば「ペットボトルが服になることは知っていたが,弁当の残りが肥料になることは知らなかった」という感想にはその二つが含まれている。このように仮定すると子どもの学びは次のようにモデル化できよう。(図4-1)
(2)発展学習による子どもの学び
(ア)「知識的行動化」
先に述べたように発展学習においては,話し合い学習を中心に行った。番組3の感想発表の後の話し合いを以下に示す。
Y児 まず自分たちにできることを話し合ったらどうですか。 I児 僕はY君と違って,自分たちにできることはいつでも考えられるので人はなぜゴミ箱に捨てる習慣を付けていないのか。というのは,自然になぜ捨てるのか。 教師 なるほど。そういうことを考えていこうと。 T児 僕はY君の意見に賛成です。自分にできないことは意見は出せるけど何もできないじゃないですか。でも自分たちができる範囲だったら何かできることがあると思うので自分たちでできることを話し合っていったらいいと思います。 教師 これ(板書「自分たちにできること」)を考えながらこれ(板書「なぜ捨てるのか」)も考えていけるかなあ。 F児 自分<聞き取れず>落ちているごみを拾うこともできる。 T児 家庭排水をゼロにすることはできないけど 教師 家庭排水? F児 汚れた水。家庭排水をゼロにすることはできないけど少な目にすることはできるのでやったらいい。 K児 前,教頭先生も言ってたけど合成洗剤でなく石鹸を使えば解けやすいってあまり汚れないと言っていた。 教師 つまり合成洗剤を使わずに石鹸を使う。(板書) I児 燃やせるものは自分たちで燃やす。ドラム缶とかだったらいける。 K児 I君の言ってることはあってることはあってるけどちょっと違うような気がするんですよ。燃やしたら出るじゃないですか。ビニールとか燃やしたらいろいろ。今言ってるじゃないですかダイオキシンとか。だから分別してやっぱり有害なものが出ないかを考えて燃やす。 T児 僕もK君に賛成です。 Y児 燃やさずに土に埋める。 I児 Y君に聞きます。ごみは埋めたら自然になくなるんですか? M児 それは埋め立て地とかは燃えないごみとか埋めてあるけど,ちゃんと自然に帰るもの生ゴミとかだったら埋めた方がいいと思います。 T児 紙も。 M児 紙もいけるよなあ。だからもともと自然にあるものを加工したごみなどは自然に帰せるごみは捨てても大丈夫だと思います。 T児 それに生ゴミとかを畑に埋めたら肥料になって一石二鳥じゃあないですか。 |
子どもたちは自分たちにできることとして「落ちているごみを拾う」「家庭排水を少な目にする」「合成洗剤でなく石鹸を使う」「分別して燃やす」「土に埋める」と言うように次々と意見を出していった。教師は,意見が出終わった時に,次のように問いかけた。
教師 (問いつめる口調で)するんやな。家で全部ごみ埋めるんやな。 K児 いいえ。(笑い) |
出た意見に対する教師の問いつめに対し,子どもたちは笑いながらであるが「いいえ」と答えていく。
つまり子どもたちは「自分たちにできること」の話し合いの中で,次々と意見を発表するが,それらは「本音」の部分でない場合があると思われる。例えばK児は「前,教頭先生も言ってたけど,合成洗剤でなく石鹸を使えば解けやすいってあまり汚れないと言っていた。」として生活排水について家庭科で学習したことを述べているが,これは「自分たちにできること」としてではなく,知識として「すればよいこと」を述べている。このような学びを「知識的行動化」と呼ぶことにする。
このような学びは環境学習に限ったことではないが,子どもたちは事前に環境問題についての様々な知識を持っており,それを発表していくという学び方である。つまり自分が「切実性」をもって考えるのではなく,知識的に「そうした方がよい」「そうしなければいけない」と言ったことを再認識する学びである。このような学び方も,子どもの一つの学び方としてとらえる必要があると考える。
これらを以下のようにまとめておくことにする。
子どもは環境問題についての行動化について考えるとき,それまでの知識などから「行動すればよいこと」「行動すべきこと」という「知識的行動化」を行う。しかし,それらは,自らの問題としての「切実性」に乏しいものが含まれる可能性がある。
(イ)「学校枠」による学びへの影響
番組3においてある児童から次のような発言がなされた。
Y児 そうじゃ。いいこと考えたっちゃ。川にごみを捨てる人がいたら看板を作ってごみを捨てるんじゃねえぞとか,あの食楽園前に「近寄るな危ない」とか何か書いてあるから,それを応用したやつで「ごみを捨てたらだめ」とか言うのを50個位ぽんぽんと50個ってオーバーやけどなんかしよったら僕はいけると。方上は自然の宝庫ですとかごみを捨てないで下さいとか。 |
この発言は,地域に看板を設置しようと言う提案である。その後,看板だけではなくゴミ箱を設置しようという意見が出る。その後の場面である。
教師 どこに作るの?どこに立てる? T児 川の近く Y児 そこの食楽園前。あすこようけごみがある。 教師 そう言ってるよ。このクラスで,みんなでできることで,看板を作ってそこへゴミ箱を置こうって言うんだね。食楽園前なのね,場所は。 N児 先生,それ勝手にやっていいんですか? K児 それぐらいだったら・・ 教師 ほお? N児 そんなん勝手にやっていいんですか? 教師 いいんじゃないの。勝手にやったらいけないなら許可もらえばいいじゃない。 N児 誰に言うて? T児 市役所。 教師 市役所とか N児 うわー。きつー。 教師 そんなことはしたくないんだ。面倒なんでしょ。(笑い) N児 いやいや。(笑い) |
ここでN児は「勝手にやっていいんですか」と発言している。これは「看板などの設置を自分たちが勝手にしてもいいのか」という発言である。教師はこの後のN児の「うわー。きつー」と言う発言から,N児は「面倒だからしたくない」ととらえている。N児は「いやいや。」と否定してはいるが,教師の捉え方は変わっていない。
この事例に見られるN児の発言は社会参加ということへの抵抗感ととらえることができる。環境問題は社会と密接に関わり合っている。当然,社会への働きかけは必要となろう。しかし,この事例から,子どもは社会参加の学習に対して抵抗感をもっていると考えることができる。それは教室における学習が社会的な問題と切り離されて考えられていると言うことでもある。これは子どものもつ「学校枠」ととらえることができる。学校で学んだことが日常生活で使えないとか「日常知と学校知の分離」といったことが言われているが,環境問題のように社会へ働きかけていく学習において,子どもは行動化を「学校枠」の中で考えようとすると考えられる。教師は,そのような枠組みが子どもにはあることをふまえる必要がある。
これまでのことをまとめておく。
環境学習の学び方において子どもは子どもなりの学校枠をもっており,その中で活動したり,考えたりしようとする。
(ウ)学び方の形式化
放送学習では,疑問が生まれにくいことは先に述べた。それでは感想を述べあった後,子どもたちはどのようにして学ぼうとするのか。感想発表直後の子どもたちの発言は次のようなものである。
教師 話し合いに入っていこう。だいぶ意見を出してくれたね。だいたいテレビを見ての感想は出てきたかな。ここから考えていこう。 Y児 まず自分たちにできることを話したらどうですか。 (番組3の事例) |
T児 話し合いしませんか? 多数 はい。 Y児 何を話し合うんですか? K児 テレビを見て感想をまとめたりいろいろ出た意見をまとめたりして話し合います。 (番組4の事例) |
I児 そろそろ話し合いをしていきましょう。 T児 何の話し合いするんですか。 S児 前ポスターとか言ってました。この前パンフレットを作るというところまで行って終わったんですけど。 教師 それは前の時間でしょ。それから進んでいないよね。で,何を話し合ったらいいか分かんない。みんな同じ意見じゃない。農薬使うのはだめだよって言うんでしょ。そういうことでしょ,みんなの意見は。だからもう話し合うこともないから,終わりますか。 M児 私はこれから自分たちでできることを話し合って行けばいいと思います。 (番組5の事例) |
番組3の事例と番組5の事例では時間的に大きな隔たりがある。にもかかわらず,事例5で子どもは「これから自分たちにできること」を話し合おうと提案している。これは,番組3での学び方を再度繰り返そうするということである。また番組3の事例は,番組2の「ごみをなくす集会」の学び方と同じ流れで話し合おうとしたものと思われる。
このように番組から疑問が生まれず,話し合う課題を見つけられない場合,子どもは同じような学習パターンをとろうとすることが明らかになった。これは,番組から発展した課題を設定できない状態になった場合,子どもはこれまでの学習パターンを想起し,それと同じように学ぼうとすると言うことである。このことは,子どもが環境学習をどのように進めていくかを自主的に決定することの難しさを示唆している。と同時に,そのような場合,一度経験した学び方を再度繰り返そうとすると言うことである。子どもたちは他教科の場合は感想から課題を設定することができる場合がある。そのことから考えると,同じような学習パターンをとろうとする背景には,子ども自らが環境学習という枠組みを作りながらも,何を学習すればよいか分からず,これまでの学習方法を手続的にくりかえそうとしていると考えられる。
これらをまとめると次のようにまとめることができよう。
発展学習において,子どもたち自らが学習課題や学習方法を考えることは難しく,それまでの学習方法を繰り返そうとする。それは子どもが環境学習という枠組みを自ら作り出そうとしているためである。
(エ)参加者としての達成感・充実感
これまでのまとめとしての作文の中には,次のような文章が見られた。
(M児)4月の頃,私は環境問題なんて自分に関係ないと思っていた。でもそれは間違いだった。(中略)4つのグループに分かれ,看板のデザインから立てるところまで,ほとんど自分たちの手でできた。その後見に行ってみると,看板とゴミ箱を設置したあたりはなんだか少しきれいになっていて,ゴミ箱の中には,空き缶が4個ぐらい入っていた。その時は,「入れてくれた人がいたんだね。よかったね。」と,友達と話した。本当にうれしかった。
(A児)この前,テレビを見て話し合って,看板とゴミ箱を設置しました。そして,しばらくして見に行ったら,ごみが入っていました。ごみが多いと言うことはよくないことだけど,なんだかうれしかったです。
(Y児)看板とゴミ箱を置きに行ってから,約1ヶ月が経った。すると,ごみが少し入っていた。だからとてもうれしかった。少しでも人の役に立ってよかったと思う。
ここにあげた子どもたちは,自らの設置したゴミ箱が活用されたことに,一様に「うれしかった」と表現している。このような表現の中は,ごみ問題を解決している自分への喜びが感じられる。つまり,看板やゴミ箱を設置したことで,自らを,ごみ問題を解決している社会への参加者としてとらえていることが伺える。と同時に,この喜びは,環境を大切にしようとする意欲の高まりととらえることができる。これは,総合的な学習において,よりよい社会への参加意識が,活動の充実感や達成感につながることを示唆しているように思われる。
(3)子どもの学びをふまえた教師の支援について
4-(1)で述べたように子どもたちは番組から新しい知識を獲得し,それを既有知識と矛盾なく受容し,疑問を生じない。さらに,4-(2)-(ウ)で述べたように,学習課題や学習方法を考えることが難しいとすれば,どのような支援をすればいいのだろうか。
番組5の発展学習の事例をもとに考えてみたい。話し合いの一部を以下に示す。
I児 そろそろ話し合いをしていきましょう。 T児 何の話し合いするんですか。 S児 前ポスターとか言ってました。この前パンフレットを作るというところまで行って終わったんですけど。 教師 それは前の時間でしょ。それから進んでいないよね。で,何を話し合ったらいいか分かんない。みんな同じ意見じゃない。農薬使うのはだめだよって言うんでしょ。そういうことでしょ,みんなの意見は。だからもう話し合うこともないから,終わりますか。 M児 私はこれから自分たちでできることを話し合って行けばいいと思います。 I児 僕は今日テレビで見たことを言ってあまり殺虫剤を使わないことを勧めてみます。 (途中省略) 教師 ほう。あなたの所は使ってるの? I児 使とうかも知れん。 教師 だからそれをやめようってお父さんやおばあちゃんに言うのね。(A児に向かって)あなたも言うのね。(Y児に向かって)あなたもそう。 Y児 違う違う。 教師 (Y児に)あんたんちは使ってないよね。農薬。I君は言うんだって。あなたも言うのね。今日帰って。 Y児 違う。それは,I君。農薬を使うのをやめてしまったら米を作ろうと思っても害虫が増えてしまうので農薬を使わないことに反対するんじゃあないですか。 (途中省略) Y児 もし農薬を使わないとしたらカモを使うんですか? I児 Y君は農薬を使わないのだったらカモを使うと言いましたね。質問があるんですけどカモなんてどこから捕まえてくるんですか? 教師 M君。それに答えないとね。あなたアイガモを使った方がいいっていったよね。 M児 でも出来ないところはしょうない。 教師 出来ないこと言ってるの?あなたアイガモ使えば良いって言ったじゃない。ねえ。ねえT児さん。アイガモ使うと良いよね。だからあなたどこからかアイガモ手に入れて,農業にアイガモ使っていくというのに賛成なんでしょ。 (途中省略) 教師 N君はアイガモ使うって言ってるよ。(Nに向かって)N君の近くで農薬使ってるのみたことあるの?(N児 首を振る)じゃあ何で方上は(アイガモを)使ってないの? |
この番組の視聴後の感想発表では,多くの子どもが「農薬を使わない方がいい」と言う意見を発表し,そのために「アイガモを使えばいい」とテレビから得た方法を,新しい知識として受容した。そして,それを自分の家が農業を営んでいるI児が,家に帰って,できるだけ農薬を使わないこと言うと発言したことに対して,Y児が異議を唱える。そこからアイガモを使うことについて話し合いが進む。そしてI児の「可能か?」と言うことから,教師は,「アイガモを使った方がいい」と発言したM児にその質問を振り替えた。それに対して,M児は,「出来ないところは仕方がない」と,答えている。
その後の話し合いでは,「農薬をうまく使う」と言う意見がでて,それに対しての意見が相次ぐ。
しかしN児は,その後もアイガモを手に入れることは可能であると主張する。そこで教師はさらに「じゃあ何で方上は(アイガモを)使ってないの?」と,番組から得た知識を再度ゆさぶった。その結果授業の最後には次のような発言が行われた。
Y児 聞いて下さい。僕はさっきMさんと少し話してたんだけど,現実に農家の人に話を聞いてみたらどうですか?農業しよう家。たくさんあるから。 F児 僕もI君の意見に賛成。 |
この後,放課後の調査活動にすることや,農家の人に聞いてみること,農業協同組合に問い合わせてみること等を示して授業を終えた。その後,数名の児童が調べたことをノートにまとめてきた。
これまでの事例から教師の果たした役割について考えてみる。この事例においては,放送番組から得た知識のうち「農薬を使わない方がいい」と言うことについては,これまでの知識と矛盾するものではなく,いわゆる「正解」である。そして,アイガモを使う方法は,それに矛盾しないいい方法なのである。これにより子どもの中では,問題は生まれない。しかし,I児の指摘した「実現可能性」を考えた場合,様々な問題が生じることになる。さらに,N児に対する教師の「現実との比較」を問う質問には,ほとんどの子どもは答えられない。
結局,新たに「農家の人は農薬をどう使っているのか」とか「アイガモを使わないのは何故か」という課題が生まれることになる。つまり,ここでの教師の支援は子どもが得た新しい知識や,農薬を使わない方がよいという意見は受容しながら,「実現可能性」と「現実との比較」を促したことになる。これにより,子どもの考えは,これまでの「既有知識」「新しい知識」「現実」が,それぞれ関連づけられながら見直され,そこに生まれた新たな問いに対して調査活動を行ったものと考えることができる。
このようなことから,次の授業へとつながる支援策として「実現可能性」と「現実との比較」が,有効ではないかという仮説を得ることができる。
これまでの考察をモデル化したのが以下のものである。(図4-2)
このモデルもとにすると,「新しい知識」「既有知識」「現実」が大きければ大きいほど,課題が生まれやすくなることが考えられる。また,本校の地域性を考えた場合,海を扱った番組のような場合は,子どもたちの「現実」は極めて弱くなることが考えられる。このような場合は,「新しい知識」と「既有知識」の間から,自らの課題を見つけられるような支援を考えていくことが必要になるのではないかということが想定されるのである。
5 終わりに
(1)子どもの学びを見つめた放送教育について
これまでの実践や子どもの学びは,これまでの研究や実践で明らかにされてきたことかも知れない。また,考察なども不十分であることは,承知している。しかし,目の前の子どもたちの学びを捉え,自らの実践を改善していく方法が考えられなくては,全国一律に同じようなカリキュラムが用意され,さらには,いわゆる「先進校」のまねごとをしたカリキュラムや実践が行われることになるのではないかと言う懸念をもっている。また「総合的な学習の時間」では,各学校や地域に応じた実践が求められている。しかし,そうなればそうなるほど,実践の共有化が難しくなる可能性もある。今回の提案は,そのような自らの不安を解決していくための提案であったかも知れない。ただ,今回の実践でも,放送番組は,子どもたちに様々な点で有効であることは確認された。残り半年間,継続的に活用しながら,子どもの学びを捉えていきたいと考えている。
(2)番組の教材性について
最後に,番組の教材性についてふれておきたい。それは,単なる番組批判ではなく,制作者と現場の教師が共に放送番組を作っていくという考えからである。まず1番に考えられることは,子どもたちは様々な新しい知識は獲得するが,子どもたちにとって切実な問題意識が生まれなかったという問題である。悲惨さを強調した環境番組にならないように環境問題に取り組んでいる人々や,解決方法の一例を映像を通してみせることは,環境問題に希望を与える構成である。しかし,このような番組は,子どもたちが映像に安易に説得されてしまい「知識的行動化」に代表されるような「頭の中での環境問題」で終結してしまう可能性がある。そこで,番組内容については,もっと子どもに知的好奇心や子どもの既存の知識に矛盾するような身近さがほしい。それにより環境問題をより多面的に考えようとする態度や「切実性」が生まれると考えられる。蛇足ではあるが,本年度放送されている番組はインターネットによる双方向性を強調している。しかし,子どもはそのことにはほとんど関心を示さなかった。これは本校がインターネットを導入していないからかもしれないが。 以上