教育実践

子供がつくる授業

 毎年、徳島県小学校教育研究会主催の教育文化講演会が開催されていますが、昨年度(令和3年度)は、上智大学総合人間科学部教育学科 教授 奈須 正裕 先生のご講演がオンラインで行われました。皆さんもご存じでしょうが、奈須先生は、徳島のご出身です。私が大学生の頃、学生だった先生を研究室でお見かけしたことがあります。さらに、小教研の総合部会には、よくご指導に来徳してくださってます。先生は現在、日本の教育をリードしておられ、次期指導要領にも深く関わられているようです。

 その講演の中で、先生が前に立って授業をするのではない授業の例を示されたり、子供たちだけで授業することを推奨されたりしました。私は、大変共感して拝聴しました。しかし、その後、ある研究会でその内容についての話になり、若い先生から「子供たちだけで授業をするのはおかしい」という発言がありました。そこで、私自身が教師になって4~5年頃、「子供がつくる授業」を研究していた話をしました。

 その後、気になったので、当時の文書を探すと、ワープロでうった紙の文書が見つかりました。そこで、それをOCRで読み取り、記事としてUPすることにしました。今から30年以上前の若かりし頃の文章で、読み返すと、独りよがりの文章ですが、基本的な考えはこの頃にできていたんだなあと感じます。「新任5年目までが大事」と昔、5年次研修で言われたことを思い出します。若いメンバーの参考になれば幸いです。

わかい氏
わかい氏

ワープロって何?(笑)

子供がつくる授業をめざして~「子供がつくる授業」についての基本的考えかた~

〇〇小学校教諭    今川 仁史

1 はじめに

 「現在の教育実践上における最大の問題点は、学級集団に対する指導と子供ひとりひとりが学ぶこととの関係が明確にされていないのではないか。」と言うのが、この論稿を貫く私の立場である。この問題は、とりたてて今に始まったものではない。しかし、この問題は、社会情勢の変化やこれまでの教育のありかたにおける反省のもと、いわゆる「個別化学習」あるいは「自ら学ぶ」という問題として、今日、さらにその解決が強く求められているものである。ここでは、これまでの研究を通して得た基本的な考えと、それを教育実践上、いかに解決していくかについて述べていく。ご批判を戴きたい。

2 個にまつわる周辺の問題

(1)教育内容と個別化の問題

 教育課程審議会は、今回の指導要領の改訂にあたり「個性教育」の重要性を打ち出した。指導要領の内容についての考察はここでの目的ではない。しかし、教育における子どもひとりひとりの個性という、いわば極めて当たり前とも思われることが、今更ながら取り上げられることの理由が何を意味するかは、自明の理であろう。そして、これを実現するためには、教育内容の精選が重要であるとしている。これは、大いに納得のいくことではあるが、果たして現実はどうなるか。ただ、我々教師が、このことを絶えず考えていかなくてはなるまい。

 指導すべき内容が多すぎて時間的なゆとりのないところに、個々をみつめた指導が出来うる可能性は少ない。

(2)授業形態と個別化の問題

 日本の教育は明治以来、様々な学説による授業形態の改革はあったにせよ、多くの学校教育現場では、基本的に見れば、一斉指導を中心に授業が行われてきた。そして、現在もこの方法が主流であることには変わりない。確かに一方では、個々の子供の興味関心に応じた目標を設定し、自由な学習を進める形態などが研究·実践されてはいる。しかし、それらはやはり、未だ少数派であると言わざるをえない。そこには、教育方法自体に内在する問題や教育に対する社会通念や制度の問題、さらに一教師が取り組むには極めて困難な実態がある。

 これらのことを考えると、一斉指導という授業形態は、近未来的には変わりそうもない。とすれば、この形態において、いかに個別化の問題をとらえていくかは、やはり差し迫った重要な問題と言えよう。

(3)系統学習と問題解決学習

 系統学習か問題解決学習かといったことは、これまでも大きな論争であった。一斉指導における「個性」の問題を考えるとき、やはりこの問題は避けては通れない。つまり、一方では、指導要領において指導すべき内容が決められている現実において、真に問題解決学習は可能なのか。また他方においては、一般的な発達段階を考慮した系統学習や、科学的な認識についての系統学習は、はたして個々の認識過程における系統性を覆い尽くせるものなのか、といった問題である。これらの問題は、系統学習と問題解決学習のありかたについて、個々の子どもの認識という観点からさらに考えていく必要がある。     次では、これらのことについて詳しく考察していく。

3 教育と「認識」のかかわり

(1)「学ぶ」と「教える」

 「学ぶ」ということは、つまるところ、子供一人一人の「認識」をより深いものにしていくことであると考える。ここでいう「認識」とは、「思考」と「知識」である。さらに「思考」とは「物事を構造的に把握すること」であり、「知識」とは「思考によって得られた成果」である。これまでの教育は「知議つめこみ主義」という批判通り、「認識」における「知識」に重きが置かれすぎていたと言えよう。また、それは「知識」が「思考によって得られた成果」であるとの理由から、評価面でも「知識」に重きが置かれていたのではないかとも考えられる。分かりやすく言えば、「よく考えれば(思考すれば)、この知識にいたるはずだ。」という考えが指導者の側にあるのではないかということである。果たしてそれは正しい考えかたなのだろうか。もしこれが正しければ、思考というものが、発展する筋道が明確になれば、そのレールにのせさえすれば良いことになる。そしてそれは、万人に適応されうる。とすれば、そこには個性や独創性などというものは認められなくなりはしないだろうか。私は、これにはやはりうなずきかねる。個人の思考というものは、それぞれによって異なる。従って、指導者の論理は、あくまで個人の論理であり、それは結局、子供一人一人の論理と同じ物としてしか意味を持たない。更に突き詰めれば、「教える」ということは不可能となり、指導者が教えたつもりになっているだけで、ある認識というものは、一人一人が学び取ったものでしかないと言えるのではなかろうか。

 つまり、教育という活動は、「教える」のではなく、子供一人一人が学ぶようななんらかの援助をすることでしかないのと思うのである。

(2)系統主義と授業の問題

 先に述べたことを、授業という面からとらえ直してみよう。仮に思考という道筋に一定のものがあると仮定する。とすれば現在Aというステップにある思考が、Bというステップになるためのなんらかの指導がされる。しかし、ここで、もともとBというステップにある子供には、この指導は不必要である。とすれば、これはいわゆる「能力別」という考えかたにつながり、その枠内のほうが有効性が高い。ただ、現在の学校教育でこの枠組みを設けることには、困難な条件が多い。

 さらに、一人一人の思考のステップによって指導の内容が変わるということになるが、現実的な授業においては、Bというステップへの指導と、BからCというステップが同時に満たされるような授業をすべきであろう。

 それは、結局、系統的に指導するということに矛盾している。つまり、系統を細分化し、重視すればするほど、系統的な指導は、その指導が系統性を欠いていくということになる。ここに、系統性を重視した授業の大きな落とし穴がある。

(3)大人の論理と子供の論理

 これまで述べてきたように、個々の思考というものは、同一のものであるとは考えにくく、また実際の授業に於ける問題点もある。しかし、だからといって子供の思考は、全く無秩序に、また発達と何のかかわりも無いものではない。それぞれの思考にはその思考を支える認識が存在する。また、発達段階においてはある傾向を示すということはあるようである。ここにいわゆる大人の論理と子供の論理の違いがある。このことをわきまえて置かなければ「あれだけ教えたのに。」とか「どうしてこんな簡単なことが分からないのか。」といったことになる。これは大人の論理を単に子供に押し付けただけであり、大人の一人芝居である。つまり、大人の論理で考えればしごく当たり前のことであっても、それは子供の論理ではないのである。我々教師は、このことを謙虚に考える必要がある。

 確かに、学問的に正しいという論理はある。しかし、この論理は、子供の認識の発展における論理とは必ずしも一致しない。ここに、子供の「分からない。」というつぶやきがうまれる。子供の「分からない。」というつぶやきは、子供が考えているから分からないのであり、子供が分からないのは自分の論理に合わないからなのである。自分の思考の道筋と違うからなのである。それゆえに、子供の「分からない。」というつぶやきこそを、われわれはいつも大切にしなければならない。そして、子供の個性を認めるためには、子供の論理を認めた授業をつくらなければならない。ここに、「子供がつくる授業」基本がある。

(4)個々の思考と集団の思考

 学校教育における授業は、基本的には集団で行われる。ここに新たな問題が生じる。それは、個々の思考と、それらの集まりとしての集団の思考との関係である。現実的に言えば、個々の思考をいかに集団の場で結びけるかという問題である。また、個人の側から考えれば、個々の思考が他人の思考によってどう変化するかということになる。もし、何も変わらないとすれば、少なくとも思考の発達においては、集団というものは不必要である。

 しかし、我々は、人の意見を聞くことにより物事に対する見方や考えかたを変えている。また、一人で学ぶ場合でも、なんらかの逆思考を想定する場合が多い。つまり、Aという考えを持った場合、必ず非Aという考えを想定し、それによってAという考えかたを深めたり、否定したりする。これらのことを考えた場合、思考が深まるためにはなんらかの刺激が必要不可欠であると言えよう。と考えれば、授業というものは、他人との認識の比較が基本になる。このことが、討論の必要性の理論的べースである。

4 問題解決学習による授業は可能か

(1)指導要傾と「問題」との関わり

 系統主義による授業は、自己の矛盾の中に授業をおとしめてしまうことは、先に述べたとおりである。それでは、問題解決による学習はどうであろうか。ここでいう問題解決学習とは、個々が持った疑問を解決していく学習をさす。個々の思考や知識がそれぞれ異なっているとすれば、そこに生じる疑問は、個々によって違うと考えるのが自然であろう。確かに総ての疑問が全く違うとは言い切れないが、少なくとも、全く同じになることはないであろう。さらに、それらは、あるねらいにつながらなければならない。それは、指導要領というものが有る限り仕方の無い現実である。ということは、個々の疑問を「問題」として考えた問題解決学習は、厳密には不可能に近くなる。つまり、何等かの意図を含んだ「問題」を持たすように仕組まなければならない。ここに指導内容の精選という必要性が出てくる。

(2)現在の形式的な問題解決学習

 さて、現在行われている多くの問題解決学習といわれる授業は、指導者のねらいによって選ばれた教材が提示され、それから子供達が問題作りをする。さらに、その問題の中でねらいに沿わないものはすてられ、いわゆる学級の課題が出来上がる。それを、指導者の発問によって誘導的に解決していく。ここには、これまで述べてきたような数々の間題がある。まず、問題というものがつくらされたものであるということ、つまり子供にとっては本当の「問題」にはならない場合が多い。さらに、それらがすべては認められないということ、そして、指導者が考えた道筋、つまり大人の論理にそって、解決されるということである。これらのうち児童が一つでも違う道を選べば、たちまちついていけないことになる。つまり、現在の多くの問題解決学習は、その形式のみを残しているだけで、指導者の手の平からはみだしてはならないのが現実である。これではいくら「個別化」の問題を考えたところで、どうにもならない。

5 「子供がつくる授業」をめざして

(1)「子供がつくる授業」とは何か。

 これまで述べてきたことから、授業はあくまでも子供一人一人が自由に思考し、認識を深めていく場にしていくことを基本としなければならない。そしてそれが、個性に応じた教育であって、個別化教育であると考える。しかし、だからといって、まったく他との関わりを持たず、勝手に個々が学ぶことが最善の方法だと考えるのは短絡的である。認識は、主観である。従って、先述したように、それを他者の認識と比べることにより、より深められる。ここに、集団と個々のかかわりの必要性がある。いわば、集団は個々の認識を深めるための手段としての意味がある。それとは別の、違った側面として社会性と言うことも上げられよう。ある物事について、いろいろな見方、考えかたがあることを理解することは、社会生活上必要不可欠であろう。

 これらのことを授業レベルでとらえたものが「子供がつくる授業」であると、私は考えている。つまり、子供一人一人の認識を認め、それが集団のなかで生かされることにより、より深い認識を育てていく授業といえよう。

(2)「子供がつくる授業」の基本的指導方法

 授業は、指導者が、あるねらいを持って行われる。しかし、これはあくまで個々に応じたねらいでなくてはならない。そしてそのねらいは教えることにより達成させるものではない。子供が学び、その結果として、ねらいが達成されていなければならない。ただ、これは極めて理想的な考えである。

 それでは、現実的にはどういった指導方法が有効であろうか。これがこれからの研究であるが、これまで述べてきたことを授業レベルでまとめると、次の4点を満たす授業ということになる。

①指導内容が精選されていること

②個々の認議が、集団の中で認められること

③大人(指導者)の論理を出来る限り排除すること

④個々の認識を深めるための条件が整えられていること

それぞれについて、少し注釈を加えたい。

①指導内容が精選されるとは、全く子供の興味関心によって自由に学ぶことではないと言うことを意味している。つまり、これは指導要領という現実問題があるということから、それを逸脱した指導内容は実践しにくいということである。さらに、学級間や評価の問題から考えても、全く自由に子供に学習内容を決めさせることには問題があろう。

②これは学級経営的なとらえかたである。つまり、何を言っても許されるということを、子供達に徹底させなければならないということである。

③これが最も重要な事であると考えている。たとえば、指導者がある発問をする。それにたいして、幾人かの児童が考えを述べる。ここでこれらの意見を指導者がまとめたり、選択したりしながら、その論理をベースに次の発問なり指示を出す。このような授業を否定するわけである。あくまで、子供の論理を大切にしたいと思うのである。ここで、一つ問題がある。それは、子供どうしの論理の食い違いである。いわば理解力や認識のレベルの違いにより子供どうしの論理が食い違うことがおこる。これをどうするかということになるのだが、ここに指導者の必要性が生まれてくるのではないかと考えている。

④これは、授業の形態や指導過程、時間など、まとめて言えば、指導技術的な問題といえるだろう。このことは、一般的な授業においても研究されている問題と思っている。ただ狭義にとらえれば、話し合いや討論のある授業だと私は考えている。

6 いくつかの実践例

 これまで述べてきたのが、私の「子供がつくる授業」に対する基本的な考えかたである。しかし、実践となるとまだまだ細かい点を含めて暗中模索の状態である。不十分であることは承知のうえで幾つかの例をあげたい。

(1)「自由な話し合い」による授業~道徳の授業から~

 本年度、〇〇小学校では放送教育の研究を進めているが、その研究授業として行ったものが、「自由な話し合いによる授業」である。詳しくは別の資料を見てもらうとして、授業の展開は次の6段階に分けられる。

①TVを視聴する

②視聴ノートを書く

③少グループで考える

④学級全体による「自由な話し合い」

⑤今までの自分を振り返る

⑥学習のまとめをする

これは、つぎのステップと対応する。

①教材呈示

②問題発見

③④問題解決

⑤問題の再検討

⑥次時への方向づけ

ここで「自由な話し合い」においてはあくまで一人の問題解決を全体が助ける形を取る。つまり、誰でも自由に発言し、その一つの問題が解決するまで全体がそれについて考えることがルールである。つまり集団は個人の問題解決の手段であると考えるのである。

(2)好きなことをする~社会科「公民館」の授業から~

 まず、教師は、何について学習するかと時間を提示する。子供達はなにをしても構わない。さらに学習中に分からないことなどがでてくればどこへ行ってもよい。全体に対して発言する場合は教壇で発言し、納得するか、他の子供の意見が出尽くしたら席に帰る。指導者は、個別指導の形を取る。

(3)書き込みによる授業~国語科「ごんぎっね」の授業から~

 まず、一人読みをして分かったことや、感じたこと、疑問に思ったことを視写したノートに書き込む。それを、出し合い全体で討議し解決する。

7 これからの課題と方向

 これまでの研究から、私の目指す授業像に近いのは、安東小学校の実践であるような気がしている。ただ、教科の枠で考えれば、コールバーグ理論による道徳の授業、仮説実験授業の方法による理科、分析批評(井関氏の方法)による国語、有田氏の社会などは、今後の研究においては学ぶところが多いのではないかと思っている。また、理論を支えるものとして認知発達の研究はどうしても必要であると考えている。

8  おわりに

 これまで、本年度の研究である「子供がつくる授業」についての、私の基本的考えを述べてきた。来年度は、より実践的な方向からこれまで述べてきたことについて研究を続けていこうと考えている。ぜひ、サークルにおいでいただきご指導·ご批判をいただきたい。