私が「放送教育」という教育があることを知ったのは、平成元年です。
勤務校が放送教育の四国大会の研究指定校となったからです。
それから30年以上にわたり放送教育にかかわってきました。そこで、放送教育で学んだことをご紹介します。
まずは、徳島の放送教育の歴史を見てみたいと思います。
私の手元に橋本正義氏が書かれた、『放送教育四半世紀-徳島県放送教育史考-』(昭和51年5月1日発行 教育出版センター)という本があります。橋本正義氏は、大正3年生まれで、徳島師範専攻科を修了され、福島小学校から教職をスタートし、昭和48年に板野郡北島小学校校長で退職された方です。
この本には、橋本氏が放送教育にかかわったのは、昭和25年であり、その時の学校放送研究会会長であった森本安市校長が、佐古小学校で放送教育の四国大会を開催して欲しいと話をしに来たとき、当時視聴覚主任であった橋本氏が呼ばれたことから始まったと書かれています。
その後の記録をまとめたのが『放送教育四半世紀-徳島県放送教育史考-』です。ですから、昭和25年以降、退職する昭和48年までのことが書かれています。そこで、まず、この本をもとに簡単にまとめておこうと思います。
徳島放送教育史1(昭和13年~昭和26年)
まず、橋本氏が、森本会長から聞いた話ということで書かれている最も古い記録が、昭和13年に徳島放送局小西局長の援助を得て、徳島ラジオ教育研究会が発足したということです。
そして、昭和15年には第1回の学校放送研究発表会が、森本氏が校長をする鳴門市板東小学校で開催され、16年に橋本氏の勤務する徳島市佐古小学校で開催されたと書かれています。さらに、戦後初めての学校放送研究発表会が鳴門市里浦南小学校で、昭和22年に開かれています。
昭和23年の記述はありません。
昭和24年8月13・14日には、高野山上で全国大会が開かれ、それに参加した、有馬明校長(愛媛県)と森本氏が中心となり、昭和25年1月21日、4県が集まり四国連盟が誕生したとのことです。
そして、いよいよ昭和25年に佐古小学校で研究が始まった時からの様子が詳しく書かれています。少し引用します。
「会場を引き受けたが研究はこれからである。いや、研究どころか施設が全然ない。(中略)
放送主任となった山本忠男先生は、大谷校長と、校下でオーディオに関する専門家の三木忠彦氏とともに大阪に飛んだ。(中略)当時200Wアンプという、とてつもない大きなものを計画設計し、その部品集めと組み立てに力をそそいだ。(中略)
一部の職員は夏休み返上である。放送室から各教室に配線しなくてはならない。40からの教室にそれぞれ線を引くのであるが、校舎が複雑であるから、1本や2本でおさまらない。放送室から数十本の線を出さなくてはならず、それを各棟に引くのであるが、それが一部の放送部員や有志職員の作業であった。(P.9~10)」
この文章を読んで、私も現職の頃、同じように校舎の天井裏に入り、同じように線を引いていたことを思い出しました。その線はコンピュータ用のLANケーブルでした。「これが教師の仕事か?」と思いながらも、これからはコンピュータの時代だと意気込んでいた姿と重なります。
ちなみにこの昭和25年に全国組織として「全国放送研究教育会連盟」が結成され、11月25日に発足したと書かれています。さらに、この年の第1回放送教育懸賞論文に、坂野中学校の日切要教頭と里浦南小学校高橋俊二校長の2名が佳作として入賞したことが書かれ、「二人の快挙は、徳島県放送教育史上に、落としてはならない優れた業績」とされているので、ここでも記しておくことにします。
昭和26年は、佐古小学校で四国大会が開かれ1000名余りの先生方が参加したと書かれています。私が何よりも驚くのは、当時の指導者に波多野完治先生の名前が書かれていることです。さらに青木章心・小川一郎・NHK川上行蔵という講師陣だったそうです。
波多野完治は、皆さんもご存じの日本を代表する心理学者で、放送教育の研究にも深く関わられていました。この後も、放送教育は、多くの著名な研究者や実践家を輩出しながら、進んでいくことになります。
ちなみに、昭和26年というのは、読者にとってはどのような年なのでしょう。歴史的には、朝鮮戦争のまっただ中です。6年生の子供たちと歴史の勉強をしていた頃は、第2次世界大戦や朝鮮戦争は、昔の出来事として感じていましたが、その時代に生まれた徳島の放送教育を引き継いでいるのだと、今さらながら教育の歴史と、自分史を重ね、思いを新たにします。